2020.02.06
チーム★リアトリス
  • Person
  • 岸和田・和泉・泉佐野

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大阪ビジネスカレッジ専門学校マスコミ学科所属の学生ライターチーム第二期生

加登 郁美(写真左)
ストレス発散は「お菓子作り」、もくもくとした作業好き女子。好きな花は「ネモフィラ」花言葉は「どこでも成功」。

藏屋 希(写真右)
ヘッドフォンとマスクの手ばなせない、いつも眠たそうな男子。好きな花は「金木犀」花言葉は「謙虚」。

大阪伝統工芸品『和泉蜻蛉玉Ⓡ』を製作する唯一の女性伝統工芸士

1000年以上の歴史を持つ和泉蜻蛉玉Ⓡ。途切れかけた技術を守り抜いた伝統工芸士、松田有利子さんの想いに触れる。

大阪の伝統工芸品に指定されている『和泉蜻蛉玉Ⓡ』は独特な技法で制作された1000年以上の歴史を持つガラス玉。その技法を唯一継承している山月工房の2代目、松田有利子さんに『和泉蜻蛉玉Ⓡ』が伝統工芸品になるまでのお話を聞かせていただきました。
昭和50年代半ばの危機
有利子さんが生まれた和泉市周辺には当時たくさんの職人さんがいて、いろんな種類のガラス玉が作られていたそうです。有利子さんのお父さまも「山月工房」という工房を持つ玉師として、ガラス玉を作っていました。

しかし昭和50年代半ば、バイヤーを通じて中国に玉を作る技術が伝わってしまったことで、約半年の間に次々とガラス玉職人がいなくなってしまいます。山月工房も急に注文が減り、難しい注文ばかりになってしまいましたが、注文が途絶えることはなかったといいます。

なぜ山月工房だけ注文が途絶えなかったのでしょうか。その理由はお父さまの玉を作る技術とお仕事ぶりにあると有利子さんは言います。「和泉蜻蛉玉Ⓡの技法(当時は和泉蜻蛉玉Ⓡとは言わなかった)は、この地方のガラス玉の作り方として製造技術が確立していたため、大勢の職人が同じように製造していました。ですが、安価な海外製品に仕事を奪われ殆どの職人は廃業に追い込まれてしまいます。その中で、元々専業の腕利きガラス玉職人であった父は、海外の職人では真似のできない技術を有していたことと、どのような仕事でも(安価な注文でも難しい注文でも)手を抜かず丁寧な仕上げにこだわっていたこと、そのおかげで山月工房は最後まで残ったんじゃないかと思います。」

そうして、山月工房が残ったおかげで、和泉市周辺の歴史の中で途切れてしまいそうだったガラス玉の技術が受け継がれることになったのです。
▲山月工房で作られているガラス玉は、何本かのガラスの棒をまとめて火で溶かしながら細い棒に巻きつけて玉を作るという技法です。一般のトンボ玉教室などで作る玉だと同じものは二つとない一点ものになるのですが、同じものを何個も複製して作れるところにプロの技術があります。
平成14年1月
途切れかけたガラス玉の技術は守りましたが、結局ガラス玉専業工房は山月工房だけになってしまいました。有利子さんは「ひとつしか工房がなくなってしまったのなら、これを残していく責任がある」と、次代に残していくことを決意。より多くの人に広めるため、ガラス玉をフリーマーケットで売り始めます。それが思いのほか大好評だったため、次にはデパートで売るように。その頃からガラス玉の歴史やならわしについても意識するようになり、伝統工芸品指定を考えるようになったそうです。
有利子さんは、伝統工芸品指定を取るために多くの文献を調べました。山月工房で作られているガラス玉が文献に書かれているものと同じであることをひとつひとつ証明していきます。調べていく中で、このガラス玉には奈良時代以前からの歴史があることも分かったのだとか。

そうやって調べて一つ一つ証明していった結果、約10年近くかかって平成14年1月、ついに大阪府知事指定伝統工芸品「和泉蜻蛉玉Ⓡ」となったのです。
平成22年、新しいはじまり。
有利子さんが新しい挑戦として行ったのが国宝の復元。初めての復元はデパートに出店していた時に訪ねてこられたことからはじまります。「阿弥陀如来坐像の台座を外したら玉がたくさん出てきた。それを復元したい」(玉=瓔珞(ようらく))と話が来たのだそう。
国宝の復元はガラスの組成から同じでないといけません。有利子さんは「玉は作れても、ガラスは作りづらい」と相談したそうですが、山月工房で使われていたガラス棒は昔からのものであるため、もしかしたらと思い成分分析をしてみると、奇跡的にほぼ同じ組成であることが判明したのだとか。その後見事玉を復元できたということです。これが一番最初の国宝復元のお仕事。また、平成23年、東京の大光明寺にある青龍弁才天御前立ち像(模刻)宝冠の硝子玉製作にも携わったようです。
これから
有利子さんは2年前、国宝復元に使われたガラスと同じ組成の透明なガラスを作ることに成功しました。

ガラスには『千の時』という名前がつけられたのですが、これは1000年受け継がれてきたガラスであることと、有利子さんのご両親、千佐さんと時春さんのお名前からも取られているのだとか。「このガラスを使って玉以外のものを作っていきたい」と有利子さん。
また、「国宝や文化財の復元をもっとしたい」のだという。なかでも「奈良の有名なお寺にある国宝に、一生のうちに復元に関わりたい玉があるんです」と心踊るような表情で未来を語ってくれました。